素読のすすめ 第61~67回
欲ばらずにほどほどに生きる「
「安分」には特に典故はない。近い語として「守分」(分を守る)が隋の王通の「文中子」に見える。
欲望を抑え、身に合った暮らしをするのが生きてゆく上での「知恵」だ。
菜根譚(132、135) 洪自誠
大意
人生は、ほんの少し減らすことを考えると、それだけ世のしがらみから抜けだせる。もし交際を減らしたならば、それだけ煩わしいいざこざをまぬがれる。口数を減らすと、それだけ過失が少なくなる。思慮分別を減らせば、それだけ心の疲れがない。利口ぶるのを減らせば、それだけ本性を全うできる。日毎に減らすことを考えないで、かえって日毎に増すことばかりを考えている者は、自分の一生をみずから束縛しているようなものだ。
仏教でいう「隨縁(縁にまかせる)」と、わが儒教のほうでいう「素位(地位に安んずる)」この「隨縁、素位」の四字は、人生の苦海を渡る上での浮き袋である。考えてみるに、人生の海は広々としており、一つのことに満足を求めると、あらゆる欲望が乱れ起ってくる。
いま置かれている境遇に安んじていれば、この先どんな境遇に置かれようと、必ず安心立命が得られぬはずがないからである。
「老」は老人。「少」は少年(若者)。老人が先に死に少年が後から死ぬとは限らない。寿命はいつ尽きるか分らない。「不定」を「フジョウ」と読むのは仏教語の常として
この語は『
「少年」の語は、今では十代の子どもを指すのが普通だが、漢語の語感としては年齢がもう少し上で十七、八から二十代ぐらいまでの“若者”を指す。李白の「少年行」など、都のいなせな若者を
大意
四方の土地にはまだ平和がおとずれず、老いかかったこの身は落ちつくこともできずにいる。子も孫もすっかり戦没してしまったからには、わが身ひとりが生きながらえていてもなんの役にたとうぞ。
そこで、つえを投げすててわが家の門を出てゆくことにしたが、一緒にゆく仲間のものは私のためにかなしんでくれる。
自分にはさいわいにまだ前歯や奥歯がのこっているものの、悲しく思うことは骨のしんがひからびてしまったことだ。しかし男児としてもはやよろいかぶとを身につけたからには、たちえしゃくして上官にお別れして出ていくとしよう。
年よったわが妻は道ばたにふしまろんで泣いている。みれば年の暮れだというのにひとえの着物をきている。このたびの別れが死に別れであるかどうかは知るよしもないが、まあまあ妻の寒そうにしているのにこころをいためずにはおれぬ。ここを立ち去ったならばきっともどってくることはあるまいが、それでも妻はわたしにたくさんたべて養生せよとすすめてくれるのを耳にする。
土門は城壁がはなはだ堅固であるし、杏園は賊がわたってくるにしても困難なところだ。そこでの形勢はかの
しかし、いま天下じゅうはことごとく戦だらけであり、のろし火は岡や山におおいかぶさっている。しかばねはつみかさなって草も木もなまぐさく、血しおは流れて川も野もまっかに染まっている。楽土はいったいどこにあるというのか。どうしてこんなところにいつまでもぐずぐずしておられようぞ。そこで私はあばら家のすみかをきっぱりと棄て去って出てゆくことにしたが、ぐったりしてこころの奥底までもうちくだける思いだ。
父母が亡くなって孝養することができない歎き。
『
父母が健在のときには親孝行など考えないが、亡くなってみると、もっと親孝行しておくのだった、と思うのが世の常である。
「孝行のしたい時には親はなし」の
「論語」為政第二
「論語」里仁第四
大意
○孟武白が孝行のことをたずねました。
孔先生は、お父さんお母さんはただ子供の病気だけを心配するものですから、病気をして親に心配かけぬようにしなくてはいけない。
○子游は孔子の弟子、孔門十傑の一人です。孝行を問うた時、孔先生がお答えになるのは、現代の孝行に対する考えは親を良く養いさえすれば、それで孝行といっているが、それでは駄目です。犬や馬だってやはり養うのです。たゞ養うだけ、食わせるだけではいけない。親に対しては終始尊敬の念を以ていなければ犬や馬と区別がないではないか。
○これは父母のあやまちがあった場合をいっています。
父母に何か過ちがあった場合、声をやわらげ、きわめておだやかに静かに諫める。ところが父母が承知なさらない時に、むっとするのはいけない。父親を敬う気持があって、父の意志にそむかぬようにする。労して怨みず、は諫めたものですから父親が何か無理なことをいいかねません。骨折り仕事をいいつけるかもしれない。或いは鞭打たれるかもしれない。けれどもそういう場合も決して父親を怨むことはない。これが孝行する人間の心掛けである。
○父母がお元気でいらっしゃる間は、年寄りであるから父母のもとを離れて遠く遊ぶことをしない。出かけるときには必ずどこへ行きますといったら、そこ以外には行かない。普通の場合は、小、中学生など、なるべくこうあって欲しいと思はれます。だれそれの家に行くといって、あいにくその友人が留守だったので別の友人のところで遊びくらし、帰りがあまり遅くなると、家では心配して最初の友人のところに電話すると、そこにはいないというので、親たちはどんなに心配するか知れません。
※孝は
物事をよく調べて本質に迫る。「物に
「大学」から出た語。格物、致知の二つと誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下、の六つを合わせて「大学の八条目」と秝する儒家思想の基本を成す標語。
「格物致知」は漢代以来諸説あるが、わかりやすくいえば「物の理(本質)を究めて知識を積む」のが宋の朱熹。それに対して「物を
「知」について言えば、朱熹は後天的に積み重ねていくもの、王陽明は生まれつき持っていて発揮していくもの、と考え方が違う。
〔大学〕八条目
大意
古の聖王の国づくりの道を尋ね、明らかにしようと思う者は、先づ、その住んでいる地域(街又は村)づくりを考え、その地域づくりを志す者は、先づ自らの家をととのえ修めます。一家を修めんと志す者は先づ自らの身を修めることに心をくだくべきです。
その自らの身を修めんと志す者は、先づその心の主体となるものを正しいものにします。その心を正しいものにする為にはその対象となるものに対して誠を尽しているか否かをしっかりと把握することです。その意志を誠にすることを把握したら、先づ、正しい態度でその対象物と向き合い、徹底的にその物を探究します。
探究していくと、あるとき、豁然として眼前がひらけ会得するときが訪れます。知至るです。知至れば誠をささげる道を覚り、正しい心を保つことが出来、身が修まります。あるじの身が修まれば一家がととのいます。やがて、こうした地域の指導者が出現することにより、街(村)づくりが完成し、ひいては天下平らか(国づくり)へとつながることになります。
すべて帰一するところは修身(我づくり)に始まるということを心に明記したいものです。
「晴れて好く、雨も奇なり」と読む
晴れても雨でもよい景色、山水の美しさをたたえた言葉。蘇東坡の杭州西湖での「湖上に飲す、初め晴れ後雨ふる」という詩にある。
〔
大意
さざ波に日の光、きらきら輝いて、晴の景色はすばらしい
取りかこむ山々はぼんやりとかすんで雨の景色もまた格別だ。
西湖を西施にたとえてみよう。
薄化粧、厚化粧、どちらにしても美しい。
鑑賞
北宋の
詩題によると、この日は宴の始まるときには晴れていた天気が、のちに雨となった。作者にとって、西湖は晴れていても雨降りであってもともに心魅かれるというのである。このとき作者は通判(副知事)として杭州にいた。
起句は西湖の晴れの情景。「水光」は、さざ波に乱反射する太陽の光。「
承句は、雨の風景。「
転句では、西湖を西施にたとえてみようと言う。
西施(西子とも)は、春秋時代の越国の美女。呉王
「淡粧」は、あっさりした化粧。「濃抹」はこってりとした化粧。「抹」は塗ること。「総て相宜し」とは、どちらにしてもよろしい、という意味。西湖の晴れの景色は西施の薄化粧、西湖の雨の景色は、西施の厚化粧になぞらえられるが、西施は濃淡どちらの化粧でも美しく、西湖の景色は晴雨どちらもすばらしいというわけである。
作者は、西湖の晴れの景色と雨の景色を、それぞれ「水光瀲?」「山色空濛」の四字でしか描写していない。百言を尽くすよりも簡にして要を得た表現で、あとは、伝説の美女西施と重ね合わせて想像してほしいと言っているかのようである。
天の
「
四字の熟語としての用例は古くは見当たらないが、発音すると「てんばつてきめん」と音がそろうので調子がよいこともあり、よく使われる言葉だ。
人類が欲望のままに化石燃料などの地球の資源を使い尽くし、環境汚染を垂れ流しにすれば、天罰は覿面に下ることになるだろう。
「論語」子張 第十九
大意
(小人=教養の無い人。君子=徳を積んだ立派な人物)
※小人の過や必ず文る。つまり教養のない小人が何か過ちをすると、きっといろいろ言いわけをして、とり繕ろい飾り立て、その過ちを自分の過ちではなかったかのようにいい廻そうと試みるものである。
君子の過ちははっきりしております。日月の蝕のようでみながそれをちゃんとみておる。改めるとみんながまたそれを仰ぐ、そこで君子は過ちを改めるに憚ることなしということになるわけです。
鑑賞
この章句は「天罰」に続く語としてはいささか意を異にしますが、「覿面」に現わるという意味では同義にあたると思いまして、抜粋して採用しました。
根拠のないのに言いふらされるうわさ。デマ。
「流言」も「飛語」も同じ意味、どこからともなく流れ飛んでくる言葉の意。「飛語」は
「流言」は『書経』に「
「蜚語」は「史記」に見える。同じく悪口を言いふらす意に同いている。
鑑賞
去年の今夜は宮中の清涼殿で
「秋思」という題の詩を作ったのだが、私の詩はとても悲しみに満ちたものとなった。
その時、ご褒美としていただいた帝の御衣は都を遠く離れた今もここにある。
毎日それを
菅原道真
平安前期の学者、延臣(845~903)宇多(うだ)醍醐(だいご)天皇に仕えた。藤原氏に対抗して