トップページ > 素読のすすめ

素読のすすめ

令和2年3月15日
素読のすすめ 四字熟語から名詩名文を訪ねる
第64回 『格物致知』かくぶつちち

物事をよく調べて本質に迫る。「物に(いた)()(いた)す」と読む。(宋の朱熹の説。)
「大学」から出た語。格物、致知の二つと誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下、の六つを合わせて「大学の八条目」と秝する儒家思想の基本を成す標語。
「格物致知」は漢代以来諸説あるが、わかりやすくいえば「物の理(本質)を究めて知識を積む」のが宋の朱熹。それに対して「物を(ただ)して知を致す」と読み「いろいろな事(物)を正して、生れつきの良知(知能)を発揮する」のが明の王陽明の考え方である。
「知」について言えば、朱熹は後天的に積み重ねていくもの、王陽明は生まれつき持っていて発揮していくもの、と考え方が違う。

楽しい素読

    〔大学〕八条目
(いにしえ)明徳(めいとく)天下(てんか)(あき)らかにせんと(ほっ)する(もの)は、()()(くに)(おさ)む。()(くに)(おさ)めんと(ほっ)する(もの)は、()()(いえ)(ととの)ふ。()(いえ)(ととの)へんと(ほっ)する(もの)は、()()()(おさ)む。()()(おさ)めんと(ほっ)する(もの)は、()()(こころ)(ただ)しうす。()(こころ)(ただ)しうせんと(ほっ)する(もの)は、()()()(まこと)にす。()()(まこと)にせんと(ほっ)する(もの)は、()()()(いた)す。()(いた)すは(もの)(いた)るに()り。(もの)(いた)りて(しか)(のち)()(いた)る。()(いた)りて(しか)(のち)()(まこと)なり。()(まこと)にして(しか)(のち)(こころ)(ただ)し。(こころ)(ただ)しうして(のち)()(おさ)まる。()(おさ)りて(しか)(のち)(いえ)(ととの)ふ。(いえ)(ととの)いて(しか)(のち)(くに)(おさ)まる。(くに)(おさ)まりて(しか)(のち)天下(てんか)(たひ)らかなり。

大意
古の聖王の国づくりの道を尋ね、明らかにしようと思う者は、先づ、その住んでいる地域(街又は村)づくりを考え、その地域づくりを志す者は、先づ自らの家をととのえ修めます。一家を修めんと志す者は先づ自らの身を修めることに心をくだくべきです。
その自らの身を修めんと志す者は、先づその心の主体となるものを正しいものにします。その心を正しいものにする為にはその対象となるものに対して誠を尽しているか否かをしっかりと把握することです。その意志を誠にすることを把握したら、先づ、正しい態度でその対象物と向き合い、徹底的にその物を探究します。
探究していくと、あるとき、豁然として眼前がひらけ会得するときが訪れます。知至るです。知至れば誠をささげる道を覚り、正しい心を保つことが出来、身が修まります。あるじの身が修まれば一家がととのいます。やがて、こうした地域の指導者が出現することにより、街(村)づくりが完成し、ひいては天下平らか(国づくり)へとつながることになります。
すべて帰一するところは修身(我づくり)に始まるということを心に明記したいものです。

令和2年3月1日
素読のすすめ 四字熟語から名詩名文を訪ねる
第63回 『晴好雨奇』せいこううき

「晴れて好く、雨も奇なり」と読む
晴れても雨でもよい景色、山水の美しさをたたえた言葉。蘇東坡の杭州西湖での「湖上に飲す、初め晴れ後雨ふる」という詩にある。

楽しい素読

湖上(こじょう)(いん)す、(はじ)()(のち)(あめ)ふる
        〔(そう)()(しょく)

水光(すいこう) (れん) ?(えん)として (はれ)(まさ)()
山色(さんしょく)空濛(くうもう)として(あめ)()()なり
西湖(せいこ)()りて 西子(せいし)()せんと(ほっ)すれば
淡粧(たんしょう) 濃抹(のうまつ) ()べて相宜(あいよろ)

大意
湖上(こじょう)(うたげ) (はじ)()(のち)(あめ)
さざ波に日の光、きらきら輝いて、晴の景色はすばらしい
取りかこむ山々はぼんやりとかすんで雨の景色もまた格別だ。
西湖を西施にたとえてみよう。
薄化粧、厚化粧、どちらにしても美しい。

鑑賞
北宋の熙寧(きねい)六年(1073年)杭州(浙江省杭州市)の西湖で宴を催したおりの作。西湖は東側に杭州市街があり、北、西、南の三方を山に囲まれた景勝の地である。
詩題によると、この日は宴の始まるときには晴れていた天気が、のちに雨となった。作者にとって、西湖は晴れていても雨降りであってもともに心魅かれるというのである。このとき作者は通判(副知事)として杭州にいた。
起句は西湖の晴れの情景。「水光」は、さざ波に乱反射する太陽の光。「(れん)?(えん)」は、水が満ちあふれるさま、また、さざ波が光輝くさま。「(まさ)に」は、ちょうどその時、というような強調のニュアンス。
承句は、雨の風景。「空濛(くうもう)」は、ぼんやりとかすむさま、うっすらとした雨雲の切れ間から、山々の色あいが変化して見えるのである。「奇」は並外れてすばらしいという意味。
転句では、西湖を西施にたとえてみようと言う。
西施(西子とも)は、春秋時代の越国の美女。呉王夫差(ふさ)に敗れた越王句践(こうせん)が彼女を夫差に贈ったところ、夫差はその色香に迷って国政をないがしろにし、ついに句践に攻め滅ぼされてしまった。もとの越の地にある西湖だから、作者は越の傾国の美女西施になぞらえるのである。
「淡粧」は、あっさりした化粧。「濃抹」はこってりとした化粧。「抹」は塗ること。「総て相宜し」とは、どちらにしてもよろしい、という意味。西湖の晴れの景色は西施の薄化粧、西湖の雨の景色は、西施の厚化粧になぞらえられるが、西施は濃淡どちらの化粧でも美しく、西湖の景色は晴雨どちらもすばらしいというわけである。
作者は、西湖の晴れの景色と雨の景色を、それぞれ「水光瀲?」「山色空濛」の四字でしか描写していない。百言を尽くすよりも簡にして要を得た表現で、あとは、伝説の美女西施と重ね合わせて想像してほしいと言っているかのようである。

令和2年2月15日
素読のすすめ 四字熟語から名詩名文を訪ねる
第62回 『天罰覿面』てんばつてきめん

天の(くだ)す罰がたちどころに現われること。
天罰(てんばつ)」は「書経(しょきょう)」(五経の一)などにも見える古い言葉。天帝が下す罰のことで、人の力の及ばないところから加えられる「神罰」と同じ。「覿面」はまみえる。()のあたりにするの意で、もとは目の上の人に対するときに用いる言葉だが、今は結果がすぐ目の前に現われることに用いる。
四字の熟語としての用例は古くは見当たらないが、発音すると「てんばつてきめん」と音がそろうので調子がよいこともあり、よく使われる言葉だ。
人類が欲望のままに化石燃料などの地球の資源を使い尽くし、環境汚染を垂れ流しにすれば、天罰は覿面に下ることになるだろう。

楽しい素読

子夏(しか)()はく「小人(しょうじん)(あやまつ)(かなら)(かざ)る」
子貢(しこう)()はく「君子(くんし)(あやまつ)日月(じつげつ)(ごと)し、(あやま)つや(ひと)(みな)(これ)(あお)ぐ。」
      「論語」子張 第十九

大意
(小人=教養の無い人。君子=徳を積んだ立派な人物)
※小人の過や必ず文る。つまり教養のない小人が何か過ちをすると、きっといろいろ言いわけをして、とり繕ろい飾り立て、その過ちを自分の過ちではなかったかのようにいい廻そうと試みるものである。
君子の過ちははっきりしております。日月の蝕のようでみながそれをちゃんとみておる。改めるとみんながまたそれを仰ぐ、そこで君子は過ちを改めるに憚ることなしということになるわけです。

鑑賞
この章句は「天罰」に続く語としてはいささか意を異にしますが、「覿面」に現わるという意味では同義にあたると思いまして、抜粋して採用しました。

令和2年2月1日
素読のすすめ 四字熟語から名詩名文を訪ねる
第61回 『流言飛語』りゅうげんひご

根拠のないのに言いふらされるうわさ。デマ。
「流言」も「飛語」も同じ意味、どこからともなく流れ飛んでくる言葉の意。「飛語」は()語」とも書く(蜚も飛ぶの意)。
「流言」は『書経』に「管叔(かんしゅく)及び其の群弟、国に流言す」と見える。周の初め武王の没後、管叔(武王の弟)たちが周公の悪口を言いふらし(周公は成王の後見を武王から託されていた)後嗣(あとつぎ)(せい)王を惑わそうとしたこと。つまり、根も葉もないうわさを撒きちらし、幼い成王をたぶらかそうとしたのである。
「蜚語」は「史記」に見える。同じく悪口を言いふらす意に同いている。

楽しい素読

  九月十日(くがつとおか) 菅原道真(すがわらのみちざね)

去年(きょねん)今夜(こんや) 清涼(せいりょう)()
秋思(しゅうし)詩篇(しへん) (ひと)断腸(だんちょう)
恩賜(おんし)御衣(ぎょい) 今此(いまここ)()
捧持(ほうじ)して毎日(まいにち) 余香(よこう)(はい)

鑑賞
去年の今夜は宮中の清涼殿で(みかど)のおそばに侍していた。
「秋思」という題の詩を作ったのだが、私の詩はとても悲しみに満ちたものとなった。
その時、ご褒美としていただいた帝の御衣は都を遠く離れた今もここにある。
毎日それを(ささ)げ持っては、残り香を拝しつつ帝をなつかしく思い起すのである。

菅原道真
平安前期の学者、延臣(845~903)宇多(うだ)醍醐(だいご)天皇に仕えた。藤原氏に対抗して文章博士(もんじょうはかせ)から右大臣に登用されたが、藤原時平の讒言(ざんげん)にあい、大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷された。その霊は天神様として祭られ、学問の神とされている。