令和元年6月1日
第45回
『暖衣飽食』だんいほうしょく
暖かい着物を着、腹いっぱい食べる。生活に不自由のないさま。満ち足りた生活、さらにはぜいたくな暮らし、という意味にもなる。
暖衣は、煖衣とも書く、着物を十分に着て、暖かく過すこと。飽食は、食に飽く、すなわち腹いっぱい食べる。
「暖衣飽食」の反対が「悪衣悪食」(粗末な着物を着、粗末な食物を食べる)だ。
孔子は「士、道に志して悪衣悪食を恥ずる者は未だ与に議するに足らず」(道を学ぼうとする者が悪衣悪食を恥じるようでは、その者と、ともには語れない)と突き放している。ヌクヌクと腹いっぱい食べるのは駄目ということ。
人の道あるや。飽食煖衣逸居して教え無ければ則ち禽獣に近し。聖人之を憂ふるあり。契をして司徒たらしめ、教ふるに人倫を以ってす。父子親あり。君臣義あり。夫婦別あり。長幼序あり。朋友信あり。
「孟子」滕文公章句上
大意
孟先生(約2000年前の学者)の言はれることに
人には人の道があるということは、暖かい着物を着て、腹いっぱいものを食べて、ヌクヌクとなまけ暮しをして人の道という教えがなければ、とり、けもの、犬、猫と同じである。そこで昔、徳の高い帝王がこれを憂いまして、契という役人を教育を司る長官に選んで「人の道」を教えるよう命じました。
1、父子の親(親は子のために、子は親のためにかくすという情)
2、君臣の義(使う人、使われる人の間にある道義)
3、夫婦の別(夫は家族のために戦い、妻は家族を養い育てる)
4、長幼の序(長上を敬い弱者をいたわるという順序)
5、朋友の信(友だちとの約束は守り、違えることがない)
いわゆる五倫の教えというものを作りました。
鑑賞
現代社会を振りかえってみましょう。
朝、テレビをつければ、着るもの、食べるもの、住むところ、その生活、見る側の収入に関わりなく、これでもか、これでもかと、欲求を刺激する画像が際限なく送り出されてきます。
一方、教育の場はどうかと言えば、知識を供給する場はあっても人の道を学ぶことを教育課程に持つ場は見当たりません。頭さえよければ、いい学校に入りさえすれば、いい所に就職出来さえすれば、自分さえ良ければ良しとする風潮を、このまま見過してよいものでしょうか。この現代社会の現状をあなたはどうお考えになりますか。
令和元年5月15日
第44回
『塞翁之馬』さいおうのうま
人生は禍と福が決まっていない。
禍が来たかと思えば福が来る。「禍福はあざねえる縄のごとし」と同じ。
次の話に基づく。
国境近くに術使いがいた。飼っていた馬が逃げたので、人が慰めると、いや禍とは限らないと答える。果してその馬が胡の駿馬を引き連れ帰って来た。人がおめでとうを言うと、いや福とは限らないと答える。
良い馬が来たので、その息子が喜んで乗るうち、落馬して足を折った。人がおくやみに来ると、いや禍とは限らないと答える。
やがて胡と戦争が始まり、若者はみな徴兵で十人中九人は死んだ。この息子は足を折ったお蔭で、父子ともども無事であった。このように禍福はくるくる定めないものという話。
塞上に近きの人に、術を善くする者有り。馬故無くして亡げて胡に入る。人皆之を弔す。其の父曰はく「此れ何遽ぞ福と為らざんや。」と居ること数月其の馬胡の駿馬を将いて帰る。人皆之を賀す。
其の父曰はく「此れ何遽ぞ禍と為る能はざらんや。」と。家良馬に富む。其の子騎を好み、堕ちて其の髀を折る。人皆之を弔す。其の父曰はく「此れ何遽ぞ福と為らざらんや。」と居ること一年、胡人大いに塞に入る。丁壮なる者、弦を控きて戦い、塞に近きの人、死する者十に九。此れ独り跛の故を以て父子相保てり。故に福の禍となり、禍の福と為る、化極むべからず、深測るべからざるなり。
「淮南子」人間訓
語釈
○塞翁…とりでの近くに住む老人。「塞」は国境の砦「翁」は老人。
○塞上…とりでのあたり「上」はほとり、(その付近)の意
○善術者…占いなどの上手な人。予言をする人の意。
○胡…西地方の遊牧民の地。良馬の産地として知られる。
○賀…祝福する
○弔…見舞う、お悔やみを言う。気の毒に思って慰める
○父…ここでは「ほ」と読んで老人の意
○何遽不為福乎…どうして福とならないことがあろうか。
「何遽」は二字で「なんぞ」と読む。
○居数月…数ヶ月たって
○駿馬…足の速い馬、良馬
○髀…太ももの骨、大腿骨
○丁壮…働き盛りの男たち
○弦を控く…弓を引き絞ること
○跛…片足の不自由なこと
○化…ものごとの変化の微妙さ
○深…ものごとの道理の奥深さ
令和元年5月1日
第43回
『臥薪嘗胆』がしんしょうたん
―目的達成のため苦労に耐える―
「薪に臥し胆を嘗む」と読む。
春秋時代、呉、越の戦いで父を亡くした呉王夫差は毎日薪の上に起き臥して「父の仇を忘れるな」と自分を励まし、ついに越を破った。
負けて命乞いをした越王勾践は、毎日獣の胆を嘗め、苦い屈辱の思いを忘れないようにし、復讐を図った。その結果、最後に越が勝って呉は滅びた。これが「史記」などに見る"呉越興亡"の一コマであり、四字熟語の出典である。
呉、越を討つ。闔廬傷つきて死す。子、夫差立つ。子胥またこれに事う。夫差讐を復せんと志す。朝夕薪中に臥し、出入するに呼ばしめて曰はく、「夫差なんじは越人のなんじの父を殺ししを忘れたるか」。
周の敬王26年、夫差越を夫椒に敗る。
越王勾践、余兵をもって会稽山に棲み、臣となり、妻は妾とならんと請う。子胥いう「不可なり」。大宰伯嚭、越の賂を受け、夫差に説きて越を赦さしむ。勾践、国に反り、胆を座臥に懸け、すなわち胆を仰ぎこれを嘗めて曰はく、「なんじ会稽の恥を忘れたるか」。国政を大夫種に属し、而して范蠡と兵を治め、呉を謀るを事とす。
十八史略「臥薪嘗胆」
大意
呉がふたたび越を攻めたとき、闔廬は傷を負い、それがもとで死んだ。
闔廬が死ぬと、その子夫差が王位を継いだ。伍子胥はひきつづき夫差に仕えることになった。夫差は父の仇を討とうと心に誓い、朝晩たきぎのなかに寝起きしてはわが身を苦しめ、出入りのさいには、臣下に
「夫差よ、父が越王に殺されたことを忘れたのか」
といわしめては、復讐の念を新たにした。
周の敬王の26年、夫差は夫椒の戦いでついに越を破った。越王勾践は残兵を率いて会稽山に逃げこみ、夫差にこう申出た。
「どうかわたしを大王の臣にし、妻を大王の妾にしていただきたい」
伍子胥はこの和議を受諾しないよう主張したが、越から賄賂を贈られた呉の大宰の伯嚭は、勾践をたすけるよう夫差に説いた。夫差は伯嚭の言を入れて、勾践を許してしまった。
こんどは勾践が復讐を誓う番となった。帰国するや、勾践は自分の部屋に干した獣のキモを吊りさげておき、いつもそれを口にして苦さを味わっては、
「会稽の恥を忘れはすまいな」と自分自身にいいきかせた。そして国政はすべて大夫の文種にまかせ、自分は賢臣范蠡とともに軍を鍛え、呉への復讐だけに専念した。
平成31年4月15日
第42回
『七歩之才』しちほのさい
七歩あるく間に詩を作る。作詩が早いこと、詩の才能が豊かなことをいう。魏の曹植(植はショクとも読む)の故事による語である。
七歩の詩(魏)曹植
豆を煮て持って羹を作り
豉を漉して以て汁を為る
萁は釜下に在りて然え
豆は釜中に在りて泣く
本同根より生ぜしに
相煎ること何ぞ太だ急なるを
七歩あるく間に作った詩
豆を煮て吸い物を作り、みその漉して汁を作ろうとする。豆がらは釜の下で燃え、豆は釜の中で泣いている。「もともと、同じ根から生れた(兄弟)なのに、どうしてこんなにひどく激しく(私を)煮たてるのですか」
大意
「七歩の詩」とは、「七歩あるく間に詩を作れ、出来なければ殺す。」という兄の文帝(曹丕の無理難題に対して、弟の曹植が即座に作ったといわれる詩の題である。父、曹操の死後、その後継を争った当時の兄弟の状況は大変切迫したものであったらしい。才能豊かで部下の将兵たちからの輿望も厚かった曹植に対する妬心もあったのかも知れない。
「豆」が曹植、「萁」が曹丕、「同根」というのは両人がその父(曹操)を同じくしていたことを指す。
平成31年4月1日
第41回
『国士無双』こくしむそう
国中に二人といない優れた人。天下第一の人
「国士」は国の中でもっとも優れた人の意。「無双(双び無し)」と強調したもの。「史記」に見える。股くぐりで有名な韓信は初め、楚の項羽に仕えたが才能を認められず、漢の劉邦に身を寄せた。ここでもよい待遇を与えられず、とうとう逃げた。劉邦は追わなかったが、家臣の蕭何は追いかけ、連れ戻した。なぜ連れ戻したか、と問われた蕭何は「並の将軍はいつでも得られますが韓信は国士無双です。」と答えた。果して……
項梁、淮を渡るとき、信、これに従う。またしばしば策をもって項羽に干む。用いられず、亡げて漢に帰し、治粟都尉となる。しばしば蕭何と語る、何これを竒とす。王南鄭に至る。将士、みな謳歌して帰らんことを思い、多く道より亡ぐ。信度る、「何、すでにしばしば言いしも、王用いず。」すなわち亡げ去る。
何、自らこれを追う。人曰く、「丞相何、亡ぐ」王、怒る。左右の手を失うが如し。何、来り謁す。王、罵りて曰く、「なんじ亡げしはなんぞや。」何、曰く、「韓信を追う。」王、曰く、「諸将の亡ぐるもの十をもって数う。公追うところなし、信を追うとは詐ならん。」何、曰く、「諸将は得易きのみ。信は国士無双なり。王必ず漢中に王たらんと欲せば信を事とするところなし。必ず天下を争わんと欲せば、信にあらずんば、ともに事を計るべき者なし。」王、曰く、「われもまた東せんと欲するのみ、いずくんぞ鬱鬱として久しくここに居らんや。」
何、曰く、「必ず東せんと計らば、よく信を用いよ。信、すなわち留らん。然らずんば信、ついに亡げんのみ。」
王、曰く、「われ公のためにもって将となさん。」何、曰く、「留ざるなり。」王、曰く、「もって大将となさん。」何、曰く、「幸堪なり、王もとより慢にして礼なし、大将を拝すること小児を呼ぶがごとし。これ信の去るゆえんなり。」
すなわち壇場を設け、礼を具う。諸将みな喜び人人自らおもえらく大将を得んと。拝するに至りて、すなわち韓信なり。一軍みな驚く。
「十八史略」楚漢の争い
大意
楚の項梁の軍が淮水を渡って進撃した時、韓信はこれに身じた。かれは何度となく項羽に献策したがいっこうに採用されない。ついに意を決して、楚を去って漢に投じ、ようやく治粟都尉に任命された。大臣の蕭何とは何度となく語り合い、蕭何は、韓信の人物を深く認めるようになった。
やがて、漢王は、漢中に封ぜられて南鄭に向けて出発したが、将兵の多くは望郷の思いにかられ、口ぐちに故郷の歌を歌った。
やがて逃亡する者が続出した。韓信も動揺した。
考えてみれば、蕭何は何度も自分を推挙してくれたが、漢王は一向に自分の策を聞き入れてくれない。ここらが潮時とみて韓信も逃げた。
蕭何は韓信が逃げたと知るや自分でこれを追いかけた。と、ある者が漢王に報告した。
「蕭丞相が逃げました。」
漢王は怒った。丞相に逃げられたのでは左右の手をもぎ取られたようなものだ。だが、ほどなく蕭何はもどって、漢王に拝謁した。漢王はどなりつけた。
「お前まで、なぜ逃げたのか。」
「韓信を追いかけたのです。」
「いままで逃げた将軍は何十人もいる。なのに、お前はだれも追わなかったではないか。韓信を追いかけたなどと、でたらめをいうな。」
「あんな将軍どもなら、いくらでも代わりがいます。だが韓信はふたりといない国士です。わが君がこれから先、いつまでも漢中の王で満足されるなら、韓信は必要な人物ではありません。だが、天下を取ろうという決意でおられるなら、かれをおいて他に相談相手はありません。」
「やがては東方へ撃って出るつもりだ。いつまでもこんなところに居られるものか。」
「そのご決心ならば、韓信にそれなりの任務をあたえることです。そうすれば、かれもとどまりましょう。さもなければ、いずれは韓信は去ってしまいますぞ」
「それならば、お前の顔を立てて、将軍に取り立てよう。」
「いや、将軍ぐらいでは……」
「では大将軍に取り立てよう。」
「そうして頂ければ幸いです。ついては、このさい、ひとこといわせていただきたい。わが君のわるい癖は、傲慢で礼を欠いておられることです。大将軍を任命されるのでも、まるで子どもを呼びつけるくらいにしかお考えにならない。韓信が逃げたのもそのためです」
漢王はこの意見を聞き入れ、礼にはずれぬよう、大将軍任命のため祭壇式場を設けた。
これを見て、将軍たちはみな喜んだ。だれもが自分が大将軍に任命されると思ったのである。だが、いざふたをあけると、これが韓信だったので、全軍はあっけにとられた。