素読のすすめ 第29~34回
バランスよく
スポーツでむきむきだけではだめ、知識教養をひけらかすばかりではだめ、両方ともバランスよく備わってこそ「君子=立派な人格者」というわけです。
「論語」雍也 第六
大意
孔先生がおっしゃるには「その人の質(生地)が文、言葉や動作(教養)を上廻るようであると
史というのは物書きの役人のこと。(
互いに励まし合い学問を磨くこと
「切磋」とは、骨や角の細工をする時の工程で、鹿の角や象牙とかを細工する時、まず彫刻をするものの形を切り出す―それが「切」で次にそれを磋いて滑らかにする。これが「磋」です。
「琢磨」とは、玉や石の細工をする時、まず第一に
「切磋琢磨」とは、人間形成のためには、通りいっぺんの学びではなく、切っては
「大学」第二部 第一章 第四節
大意
中国最古の詩集『詩経』の中にこういう一文がある。
かの
「
「赫たり、喧たり」は動的表現のすがたのこと。
赫はかがやく、ひかる。喧は言葉をもって堂々と論ずるの意ですから「赫たり、喧たり」は、ひとたび時あっていうべき場合に臨んでは立場を明らかにして、堂々と論述し、激論する姿を指します。
「
「学を道うなり」とは、学ぶ態度のこと。
「自ら修むるなり」とは、徳を修むる者の態度。
「恂慄なり」は、心を引きしめて深く慎しむこと。
「威儀」とは、誠の力が強く外に現れたもの。
「盛徳至善」とは、人格が完成し、徳が備わった「本物の人物」のことで、このような人は民が忘れることが出来ないというのであります。
互いに意気投合し、信頼し合う友。親友。
「莫逆」は「ばくげき」とも読む。「
出典は『莊子』。「四人相視て笑い、心に逆う莫し、遂に相い与に友と為る」。という記述があり、その後の用例を見ると、このように三人、四人の仲間をいう場合に用いている。「莫逆の交わり」「莫逆の契り」などとも言う。
今日ではむしろ1対1のごく親しい友人の間柄について言う場合が多い。
忍藩藩校『進脩館』の藩儒 芳川波山が生涯の友であった斉藤陶皐の訃報を聞き、詠んだ詩があるので紹介しましょう。声に出して繰り返し読んでいると、その悲しみの様相が
(友人陶皐の訃を聞き、
大意
かつて師を選んで、ともに山本北山先生に学ばんとして、笈を背負って江戸にやって来た。寸陰を惜しんで書物を手にし、道を探求して止むこともなかった。君は議論に長じ、私は筆を執ってこれに応じる力もなかった。たとえは茎と花とのようなもので、才能の優劣は比ぶべくもなかった。しかし辛さと酸っぱさが丁度調和するように、お互いにかえって仲が親密になり心が深く通い合った。起居には一つの寝床を共にし、出入には衣服を都合しあい、よろこびも悲しみも互いに打ち明け、金も借りたり貸したりして助け合ったものだった。ところが、突然に師の北山先生が亡くなられた。天は一体、何の咎を私たちに与えるのか。
思えば、私たちはまだ学半ばの時に師を失って悲しみに堪えず、誰にも頼れないことになり、水の面にただよう泡のごとく、さてこれからどうしたらよいか途方に暮れたのだった。その間にも月日は空しく過ぎ去った。昔、中国で司馬遷は『史記』を書く大業を前にして、志を抱いて各地を巡り、九疑山から禹穴まで探訪したと伝えられている。そこで私たちも志を立てて司馬遷にならい、行李を調えて、くびきを解かれた二羽の鷹のように巡遊の旅に出ることにした。東海から山陽へ、さらには九州まで極めた。険しい道に苦しみながら馬に鞭を打ち、広々とした水に小舟を浮かべる旅で、夢も冷たい山国の寺や、眺めも果てしない海辺の宿にも泊まって夜を過ごした。人恋しい思いで、夜毎の月を仰ぎ、昔を顧みて至るところで秋を送った。この間、身辺にあったのは書と剣のみ。狂ったように辺境に宿を重ねた。もとより山水は好まざるにあらざるものであったが、それにしても万里の思いは限りない淋しさであり、楼に登っても詩を賦するに堪えない日日であった。
やがてこの放浪の生活を打ち切り、江戸の町中に戻って来たが、互いに身すぎを立てるすべもなく、詩を作ったり書を講じたりして自活の道を探る暮らしであった。しかし間もなく君は名を挙げ、私塾を開くや束脩を納めて多くの門人が集まることになった。一方、私もお召しを受けて、忍城に仕えることとなった。
私が江戸を離れる日、君は土田の流(戸田の渡し)まで送って来てくれた。渡し場近くに茶亭があり、別れの宴を開いて馳走を並べ、君は私にしきりに飲めと勧めてくれた。もうこれからはなかなか会う折りもないと言って、君は泫然として声を放って泣いた。その声は川辺のかもめを驚かすほどのものであった。
窓辺は暗く月も薄い。林には恐ろしい風の音が過ぎてゆく。月は欠けても満ちることがあり、花は落ちても、再び春の盛りに逢うことが定めであるが、この私の恨みと悲しみは癒される日はないであろう。亡き魂は呼び戻すことはできない。謹んで香を焚いて祈るばかりである。地上は広いというが、一体、この愁いをどこに埋めることができるのであろうか。
『史記』に見える廉頗と蘭相如の故事から、生死をともにし、首を刎ねられても悔いのない程の親密な交友関係をさしてこういうようになった。
十八史略「戦国の七雄 ―趙―」より
大意
秦の昭王との会談を終えて帰国すると、趙王は相如の功績を賞し上卿(上席家老)に取り立てた。そればかりか、同じ上卿である廉頗の上位に置いた。おもしろくないのは廉頗である。
「わたしは、趙の総司令官として攻城野戦に大功をたてた。相如はもともと卑賤の者、ただ口先だけのはたらきにすぎないのに、位はむこうが上だ。あんな男の下に置かれるのはわたしの恥だ。よし、相如に合うことがあったら、ただではすまさんぞ」
相如はこのことを人づてに聞くと、廉頗と顔を合わさないように心がけた。朝廷への出仕も、廉頗との序列問題が表面化しないように、病気を口実にして見あわせていた。
たまたま相如が外出したときのこと、遠くのほうから廉頗がやってくるのが見えた。と、相如はあわてて車を脇道に引き入れて隠れた。さすが家臣たちも恥ずかしくなった。
が相如は、家臣たちにいった。
「かの秦王を相手にしても、わしは官廷で堂々とわたりあった。その家臣など、まるで子ども扱いにしてやったものだ。そのわしがどうして廉将軍を恐れようか。わしはこう思っている。あれほど強大な秦があえてわが国を攻めないのは、廉将軍とこのわしが頑張っているからだ、と。いま両虎が戦えば、かならずどちらかが倒れる。わしがこんなふりをしているのは、個人の争いよりもまず国家の問題が肝心だからだ。わかったかな」
これを伝え聞いた廉頗は、肌脱ぎになって
君子の三つの楽しみ。『孟子』に見える語。
「君子」の意味はここでは徳を修める人。
徳とは生れつきではなく、学び練成するものでありリーダーに必須の条件である。
「孟子」盡心章句上
大意
孟子が曰う、「君子には三つの楽しみがある。そして天下に王となる事などは、それに全然関係しない。父母共に健在で、兄弟の間に何の事故もないというのは、まず第一の楽しみである。常に正しい行をしている為、仰いでは天に対して愧じる事がなく、俯しては人に怍じることがない、というのは、第二の楽しみである。天下の才智にすぐれた者を見出し得て、之を教育するのは、第三の楽しみである。君子には三つのかかる楽しみがある。そして天下に王となって政権をにぎるなどという事は、此の中には入っていないのである。
※君子に三楽あり、而して天下に王たるは與り存せずが二度重なる処に注意されたし。
魚と水の関係のように、切っても切れない親しい交わり。『三国志』に見える話。蜀主
魚は劉備を
前回(第28回)の管鮑之交と同類だが、こちらの方は互いに相手を徳とする意味合いが強い。
(唐詩)
大意
蜀の丞相
丞相を
成都の城外、柏がうっそうと茂っている所。
石段に映える緑の草は自然のままに春の
三顧の礼に感じて天下の
出陣して勝利を得る前に病没し、永遠に世の英雄たちに無念の涙を流させている。
「丞相」は、宰相。221年、蜀漢の帝位についた劉備は、孔明を丞相に任じた。「祠堂」は、孔明をまつる廟。武候廟といい、成都の西北二里、昭烈廟(劉備をまつる廟)の西にある。「何れの処にか尋ねん」は、どこに尋ねたらいいのか。自分に問うのである。「錦官城」は、成都の別名。蜀の特産である錦を管理する役所が置かれたことによる。「柏」は、ひのきに類した常緑樹。祠前に大柏二樹があって、孔明みずから植えたと伝えられていた。「森森」は、高くうっそうと茂るさま。第二句は、第一句作者の自問を受けて自答したもの自問自答しながら道を歩む作者の心は、敬慕する人物に出会えるようかのよう浮き立っている。
第三句、四句は、武候廟の中の情景。祠堂に昇る階段の周囲に鮮やかに茂る草は、世の栄枯盛衰とは関わりなく春の装いを凝らしている。「自ら」には、はかない人間の営みとは無関係に存在する自然への感慨が込められる。
「
第五句「三顧」は、劉備が三たび孔明の草庵を訪れた故事を指す。世に名高い孔明の「
「
第六句「両朝」は蜀の先帝劉備とその子の後主劉禅。孔明は二代に二十余年にわたって仕えた。「
「出師」は、軍隊を発すること。「捷」は、勝利する。蜀漢の建興十二年(234年)兵を卆いて北伐に赴いた孔明は、五丈原に本陣を構え、渭水を隔てて魏の大将司馬懿(字は
杜甫が武候廟を訪れた年も、全国に拡散した安禄山の大乱の余波で、各地で戦乱が続いていた。不安な時世を憂えるとき、孔明を思って流される杜甫の涙もさらに熱くなるのである。
―漢文名作選(第2集)3 古今の名詩より―