素読のすすめ 第46~52回
どこから見ても美しい人。転じて、誰にでも如才なくふるまい、いい顔をする人。これは人をほめる言葉ではない。
「あいつは八方美人だ」といえば、みんなにいい顔をして、調子がよい、しかし
この語には特に典故はないようだ。
「八方」は「四方(東西南北)」と、その間(
「八方」のつく語でよく使われるものに「八方
「八方
また、どこからも正面を向いて見える肖像画にもいう。
女のあでやかさに迷わされぬようにと
世人をいましめた詩
大意
古塚にすむ狐はあだっぽい古狐。女にばけるととても器量好し。頭は雲がたのわげに早変わり、
そろりそろりとやって来たさびしい田舎道、日が暮れようとする時刻、人気のない静かな場所。そこで歌ったり、おどったり、悲しんでみたり、みどりの眉をさかだてもせず、花のかんばせたれさせる。かと思うと、急にニコニコ笑うなど、とりどりのしなをする。これをみる者、十人がうち八九までは迷ってしまう。
ばけた狐の仮りものの美しさでさえ、このように人を迷わすのだから、本物の美人のきりょうが人の心を迷わすのは、これ以上であるだろう。
本物の美人の美しさ、仮りものの狐の美しさ、そのどちらも人を迷わすが、仮りものをにくんで本物をたつとぶのが人の心。とすれば、狐が女の色っぽさをまねるのは、まだしもその害は浅く、たった一朝たった一晩、人の眼を迷わすだけのこと。しかし、女の狐の媚態をまねる害こそは深いもの、日に月に増長して人の心をおぼれさす。
まして
諸君みまえ、仮りの美人と本物の美人と、どちらの害が浅いか深いかを。仮りものの美しさの害なんかを、本物のそれと同じようにみられますかね。
「
そばに人がいないかのように振る舞う。他人の目を意識せず、勝手な行動をするということだが、ボウジャクブジンと読んでこのまま日本語になっている。
それほどよく使われているということだ。もとは『史記』荊軻列伝による。荊軻は燕の太子丹の頼みで、刺客となって秦へ赴くが、結局、秦王(後の始皇帝)の暗刹に失敗する。その荊軻の人柄を語る部分に、気の合った友人と市場で酒を飲み、大声で歌を唱い、感極まって泣き出したり、「傍若無人」であった、という。
「論語」
大意
八佾というのは、天子以下諸侯、大夫、武士等それぞれ祖先のおたまやがございます。そのおたまやをお祭りする時に舞楽を奏するのですが、天子は八䏌、諸侯は六佾、大夫は四佾、士は二佾というのが当時の周の礼でございます。ところが季氏は魯の大夫であるからして当然、四佾でなくてはならんのに八䏌の舞を舞わしたと。八䏌というのは丁度八人づつ並んで、それが八行づつある。つまり六十四人です。六佾というのは四十八人という説と、六佾となると一行が六人づつになるから三十六人という説と二つの説がありまして、どちらがいいかは今日ではちょっとわかりませんが、一体、音楽は八人並ばないと何か調子が合わないという話ですから、六佾も六・八――四十八人、四佾も四・八――三十二人という説の方がよさそうです。
要するに八佾の舞というのは祖廟の祭りを天子がなさる時の礼で、それを大夫のくせに季氏がやっているものですから、非常な僭越なことであるといって孔子が怒られた。これが我慢できるなら、我慢できないものはない。とこう言われたわけでございます。
一体、季氏が八佾を舞わしたなどというのは如何にも変ですが、これは魯の国は周の開国には非常に功績のあった周公の封ぜられたところで、周公は特別待遇で天子と同じように八佾を舞うことが周の天子から許されておったのです。周公を祭るには八佾が許されておったのをおそらく魯の国では周公が八佾だからといって、周公以外の殿様もみんな八佾を舞わしたらしいのです。そこで八佾を舞わすということは魯の殿様みなさんがなさるので、季氏もついつい僭越にもそれを真似するという次第であったしいのです。そこで孔子がこんなに厳しくいわれたことは他にはなさそうです。よくよく我慢がならず、おごりの極み、傍若無人といって叱られたようです。
人の言うことを気にも留めず、知らん顔して聞き流す。東風は春風のこと。
馬の耳に春風が吹いても知らん顔している。
出典は李白の詩
「世人此れを聞いて皆頭を
「頭を掉う」は否定するしぐさ。李白がいろいろ気焰を上げて胸のうちを詠っても、世間の人は頭を横に振って相手にしない。
それは春風が馬の耳に吹くようなものだ。と李白は歎いているのである。
わが国の「馬の耳に念仏」に近い。いくらよいことを言って聞かせても、聞く耳を持たねばしかたがない。
鑑賞
今日は陰暦三月三十日、春の最後の日の夕方になった。がっかりして春風に「明日の朝はもうここにいないんだね」と話しかけても、春風はつれない。「惆悵」は、がっかりして嘆くさま。
そこで作者は春に別れを告げようとして曲江池に出かける。曲江池は長安城の東南の隅にあった城内有数の行楽地で、春には桃李が咲き誇り、杏の名所である杏園と隣接していた。作者はそこでじっと目を凝らして春の風情を確かめようとする。「拳拳」は心をこめるさま。
しかし、目に映るのは、曲江の水面を覆って漂う無数の花びら。それは、旅立つ春の置土産である。「紛紛」は、入り乱れるさま。
行く春はいかにしても引き留められない。しかし、人生もそうなのではないか。人々は日々停まることなく旅の日程を歩む。「前程は幾多の路ぞ」(前途はどれだけ長い道のりか)と問うても、人生の旅の長さはわからない。そしてそこでは、どんなことでも起り得るだろう。戦乱だって洪水だって大火事だって。ただ戦乱や災害に対しては、身をかわして避けることはできようが、やってくる老いに対しては、身を隠して避ける場所がこの世にはない。
老年の到来は確かに人間にとっては不可避の真理には違いないが、では作者、その抗いがたい宿命に絶望して、このように詠じているのだろうか。おそらくそうではあるまい。作者はいま、自分の志を達成する方向とはおよそ反対の、ままならない境遇にいるのではないか。それに対するいわば焦りにも似た心情が、春の終りという時の変り目に触発されて、絶望的な心情の告白となったのではないか。
美しい季節への惜別の思いは、作者の心の中に潜む、ままならない自己の人生に対する焦燥の思いをかき立て、作者に絶望の心情を訴えさせるに至ったのである。「今日、春を送るわたしの心は、肉親や親友と別れるようにつらく悲しい」と作者は最後に述べる。肉親や親友との別れほど人生でつらく悲しい出来事はない。その別れと春への別れとを同等視するのは、作者がこの年の春に、とりわけつらくままならない境遇にいることを暗示するのである。
「我が田に水を引く」と読む
自分の田に水を引き入れる。自分の都合よいように言ったり、事を行ったりすること。
もっともこれは和製漢語で中国に用例はない。
ただし、「我田」も「引水」も別々には使われている。
「我田」は、古くは『詩経』に見える。
(
「引水」は『史記』に、(
「論語」选進第十一
大意
季氏に仕えた子路が、子羔を推挙して、季氏の費という領地の代官とした。(子羔という人間はなかなか素質が良くて、立派な人物になる有望な学生だったらしいのですが、まだ充分学問ができたとは言えない程度であったらしい。)
孔先生がおっしゃるには、「もう少しでものになる、あの若者をだめにしてしまうぞ」と。
子路が言うことには、「費の地には、治めるべき民も学ぶべき人物もおります。祭るべき土地の氏神も豊作祈願の神様だって鎮まっています。なにも、書物を読むことばかりが学問だとは限りますまい」と。
(自分のやったことは良いことだとして、いいくるめようとしたのでしょう)
孔先生がおっしゃるには、「だから、理屈の立つ者は嫌いなのだ」と。
(佞者は口が上手で、何とかいい加減にごまかして人の攻撃を防ぐのをいいます。)
第六章 自戒<自分からいましめ慎むの章>
自分が描いた画を自分で
自分で自分をほめる「手前味噌」に近い語。
「自画」はとくに典故などないが「自賛」は「史記」に見える。趙の平原君(戦国の四君といわれた名君の一人)の門下の
「賛」には、ほめる、という意味と、文体の一種として、画や文のあとにつける短い批評の文を意味する場合とがある。
ここでは、自分で自分をほめることをつつしみ、反対の語意である溫、良、恭、倹、譲、という語をもった章句を紹介したいと思います。
「論語」学而第一
大意
子禽が子貢に尋ねて言うことに、「私どもの孔先生はどこの国へ行っても、必ず政治のあり方などの相談を持ちかけられる。これはいったいわが孔先生の方から求めたのでしょうか。それともその国の君主たちが孔先生に持ちかけたのでしょうか」と。
すると子貢が答えて言うに「わが孔先生の態度のおだやかさ、お人柄の素直さ、その行動のうやうやしさ、つつましやかさ、何事も人に譲るというひかえめ、この五つの徳をそなえたお人柄の故に、自然に君主の方から相談を持ちかけられたのである。もちろん孔先生の諸国巡幸の目的は政治を正しくしようとすることであったのだから、先生の方から求めたと言えないこともないが、おそらくその求め方は、世間の人のいわゆる官職を求める時の媚びへつらうありさまとは大いに違っているのではなかろうか」と。
これは『史記』に見える
孟嘗君が秦に捕らわれた際、
食客とは、客分として召しかかえている人物。孟嘗君(斉の国の家老)には三千人の食客がいたという。その中の「鶏鳴」や「狗盗」はごくつまらない技の持ち主ということだが、そのおかげで助かったので”つまらぬ技でも役に立つ”例えに用いられる。
戦国七雄<斉>の
「十八史略」鶏鳴狗盗
大意
宣王が死んで、湣王が即位した。
靖郭君田嬰は、宣王の異母弟であり、
田嬰には文という子があった。文は父のあとを継いで薛の領主となると、孟嘗君と号して食客数千人をかかえ、その名声は諸侯のあいだにひろがった。
秦の昭王は、孟嘗君の賢人ぶりを伝え聞くと、斉に人質を送ったうえで、孟嘗君に会いたいと申し入れた。
孟嘗君が秦におもむくと、昭王は孟嘗君を捕えて監禁し、桟を見て殺そうとはかった。身の危険を感じた孟嘗君は、昭王の愛妾のもとに使いを出して、釈放に尽力してくれるように頼んだ。すると愛妾は、「うわさによりますと、あなたは狐のわき毛でつくったコートをお持ちとのこと、それがいただけるならば……」という。ところが、そのコートは、孟嘗君が秦に来るとき持参したものの、すでに昭王に献上してしまったあとで、もう手もとにはない。
ところが、いっしょに連れてきた食客の中にコソ泥の名人がいた。かれはこのときとばかり、秦の蔵にしのびこんでコートを盗んできた。さっそくそれを愛妾に献上したところ、まもなく、その尽力によって、孟嘗君は釈放された。
孟嘗君は時を移さず秦脱出をはかった。偽名を使い、急ぎに急いで、真夜中、
ところが、当時の関所の規則では、鶏が
食客の中から、今度は鶏の鳴き声の名人という男が現われた。この男が鶏の
一行が関所を通過したのち、まもなく追手が到着したが、時すでに遅しである。斉にたどりついた孟嘗君は、この怨みを忘れなかった。韓・魏と連合して秦を攻め、函谷関まで追った。形勢不利と見た秦は、数城を割譲して斉と和睦した。
まもなく孟嘗君は斉の宰相となったが、自分のことを斉王に
壺の中の世界。別天地『
後漢のころ、
〔唐〕
大意
山中で隠者と向かい合って酒を酌み交わして二人で向かい合って酒を酌み交わせば、(そこには美しい)山の花が咲いている。一杯、一杯また一杯(と二人は杯を重ねた)。
(そこで言う、)「私は酔ってきて、眠くなってしまった。(だから)君よ、まあひとまずここで立ち去りなさい。(それでもし、)明日の朝、気が向いたら、琴を抱いて来てくれないか」と。
鑑賞
詩題の「幽人」は俗世間を逃れて静かに暮らす隠者で、俗人ではない人物。「両人」とは、李白と俗人離れのしたその友人とを指す。詩の前半二句では、春の花咲く山中において、一杯また一杯と両人の心ゆくまで杯を重ねるさまが描かれるのであるが、第二句の七字のなんと無造作に似て思いきった、奔放きわまる表現であることか。七言四句から成る絶妙の体をなしてはいるが、近体詩の常識を破ったこのような句作りによって、七言古詩とされている。
また、そのこと以上に奔放なのは、幽人すなわち友人に向って直接話法を以って語られた後半二句の内容である。対する人によっては非礼この上ないこの言葉がそのまま許されるほどに両者の交情は深かったのである。
換言すれば、作者の求めた友情は、かくのごとくに自由であり、かくのごとく自らの心のままにふるまえる境地であったのであろう。正に壺中之天のそのままの世界である。